店名「三河屋」の由来

 え〜、ゴホゴホ、時は今から遡ること二百九十余年、年号は享保。

 享保といわれてもピンとこないでしょうけど、享保すなわち八代将軍徳川吉宗の時代でして、
享保二年には大岡忠相が江戸町奉行になり、五年には江戸町火消「いろは組」が作られ、
六年には目安箱が設けられました。

 いってみれば、暴れん坊の松平健が白馬で走りまわったり、加藤剛が難事件を解決したり、
北島三郎が消火の指示をしたりって時代です。(笑)

 その享保年間のことでござります。
三河の国、大浜(現碧南市)に三人の若者がおりました。
「ここらで一発よ〜、江戸っちゅうとこ行ってみにゃ〜か?一旗あげにゃ〜よ」って感じでしょうか?
三人して、豊川稲荷の御札を背負って、花のお江戸に出てきたわけです。
そして結局、腰を落着けたのが、水戸街道の宿場町である松戸宿でした。

 三人はそれぞれ作り酒屋を始めます。
(その内のひとりである根本の「竹澤屋」さんはつい先日まで酒屋さんを営んでいました)
初代三河屋当主は当時としてはなかなかの長命でしたが、寛延三年正月 六十三才で他界し、
現在、三河から来た三人衆はそろって二丁目の西蓮寺にて、静かに眠りについています。

 その後、江戸末期から明治初期には旅籠をするなど、紆余曲折を得ながらも
なんとか屋号を守って来たようです。万延元年(1860年)建立の松戸神社の玉垣には、
三河屋五衛門 三河屋左兵衛 三河屋詫七 の名が刻まれて三本並んでおりました。

そして、大正八年。八代目当主が江戸川、古ヶ崎の豊富な川魚に目をつけ、
佃煮、漬物店を始めました。
古ヶ崎の用水では「古ヶ崎鮒」とまで呼ばれた良質な鮒が捕れまして、
それを「すずめ焼」にしたり「寒露煮」にしていました。

 そしてそして、時は流れ現在に至るわけですが、 私には娘しかいませんし、養子ってな時代ではないですしねぇ、
三河屋も十代目の私で終わりです。
  継ぎ足しながら使い続けている当店のである【元だれ】は現在九十余年目を迎えているわけですが、
私の生命と共に腐ることになるのでしょうね・・・・・。

  

昭和三十年代初期から現在まで同じデザインで使っている架け紙 と
昭和二十年代、すずめ焼の折詰に入れていたパンフ様の物 (版木で刷ったと思われます)
これを見ると「松戸神社があって、当店がある」という様がよく伺えます。

当時は「松戸市、神社前、三河屋」で郵便物が届いたそうです。


現在使っているこの三河屋ロゴには裏話があります。
昭和六十三年、店舗改装後に店の名刺を作る折、
先代にふざけ口調で「思い切り崩して”三河屋”!って書いてみて」と書いてもらったものです。
その字体を私はパンフから名刺から使ったものですから
先代は「こんなことなら、もっと上手く書いた!」と死ぬまで言っていました。
私は凄く気に入っているんで、当店が終わるまでこれがメインロゴです!。

当店が水戸様(戸定邸)にご贔屓にしていただいてたことを
戸定邸のページにちょっと書いて見ました。クリックどうぞ!


2000/09/01
2006/04/21微改